呼吸の學校 学長&マサセンセィ 前田正秀
1956 山口県防府市に1.800グラムで生まれる。
母子手帳には2.000グラムと記載されている。200グラムは医師の温情だとのこと。
母は重度の妊娠中毒症だったが頑張って37周で私を出産。翌々年、母は第2子を身篭るもやはり重度の中毒症となる可能性が高く、そのリスクを回避しようとの医師と周囲の反対を押し切る。「お前を産めたんじゃから、大丈夫!絶対産むちゅうて言い張ってのう・・・よう止めれんかった・・・」とは父の回想の弁。周数を重ねる毎に妊娠中毒症はひどくなり、感情は鈍くなり巨漢と化した母は私を認知できない状態だったらしい。 果たしてふたりとも無事出産を終えることは困難であることから皆の総意として母親のいのちを優先するとの決断もやむなく、ふたりで旅立つ。お腹の子は弟だったそう。
これを機に悔恨と罪悪感と哀しみと敗北感にまみれた父をはじめ祖父母と親戚達は苦悩のすえ、祖母の強い意思で私を引き取ることとなる。さて、私はと言えば臨終の時も葬儀の時もその後もいっさい泣かなかったようである。かくして、泣かない男の子と傍観者の完成である。さらに傍観者への道へと磨きをかけたのは、のしかかるような愛情と厳格さでコントロールしてくる激情型の祖母の過干渉とも言えるかかわりである。私はその呪縛から常に身も心も逃れたかった。叶えたのは心を潜在意識下に避難させるというやり方だったように思う。潜在意識下で燻り続けた自由への希求は卓球で汗を流し声を張り上げることで、また油絵で色を幾重に塗りたくることで発散をしながら、なんとかなだめ忍耐させたのである。家を出るその時まで。
1974 .4 立命館大学産業社会学部入学を機に京都での自由な下宿生活が始まる。
これを境に幼少期よりコントロールされた苦渋の時代から自由を勝ち取るための抗いの時代が幕をあける。自分時間を思い出すために欠かせない時代であった。
文学好きな友人から言葉を獲得し、絵を描く友人から個の表現の可動域を強化し、映画好きな友人からは映像表現は総合芸術としての選択肢の多様さと組み合わせの自由度を広げてくれる時間芸術であることを教えられ、心を熱くした。もちろん、人生と愛と自由を映画から学び、心が解放されていったことが大きな喜びとなった。世界中のどこかで生きている誰かの人生を一篇の映画の中へ喜怒哀楽の機微を凝縮し転写し、かつ鳥瞰して【神の眼目線】で眺めることも可能だと感じられた。私という人生もまた一編の映画のように眺めてみることで自己解放が可能となり、誕生以来持ち合わせていた感じる心は隠さず押し込めず、開示し、展開させていこうと未来を見据えた。私は時間と空間を自由に行き来できるのは心が描く映像世界つまりイメージ力の中にあると知った。
そして、この可視化能力が私の今日のセラピーに欠かせないものとなっている。
1980.3 横浜映画放送専門学院卒業し、自主映画製作時代に入る。
1984.7 16m60分映画「喝華」で監督デビュー。すずなり壱番館、渋谷ユーロスペース、大森キネカなどで上映。横浜時代に知り合った美智子と婚姻届けをだす。
1986 フリーランスの演出家デビューし、ビデオ作品、プロモーション、TVなどバブル経済のお陰で多数演出。
1989の暮れに読んだシャーリーマクレーン著「アウトオン ア リム」に感動し、ニューエイジに傾倒していく。輪廻転生、チャネリングは日本人である私には精神風土的にすでになじみがあった。母の死は物質的な死であるが不思議と喪失感がなかったことから生と死はベクトルの方向の違う通過儀礼であるとの確信が得られた。何よりも新鮮だったのは個人の心の事象が映し鏡のように物象として表れるというシンクロ二シティ・共時性(ユング心理学)という考え方だった。つまりー 世界を創っていたのは神のみにあらず、私たちひとりひとりもまた大いなる自己としてすでに世界を内側に孕んでいる創造者であり、地球はその創造者たちの想念が織りなした多様な映画を上映するシアターのようなものであり、その映画のシナリオは観たい現実を見るために登場人物である私たち自身が互いに書いたものである ーとのメッセージは生い立ちから今日までの私の歩みは必然と呼べるものとして全てが繋がったのである。
1990.1始めての海外ロケでサウジアラビアへ行くこととなる。すでに「人生は必然でできている 」信望者の私に過去生やシンクロニシティ感覚が高まった。
1990.8 アメリカのアラスカ空港から帰路の際、おびただしい数でフロアというフロアを埋め尽くした若いアメリカ兵士達に遭遇した。全員、体育座りで黒人が目を引く。どうやらアラスカの冷戦以來の最前線にいる陸軍兵士達らしかった。しかし、なぜ軍用機で移動しない? ーその答えは日本に到着した時に観たニュースから知らされた。イラクがクウェート侵攻し、アメリカ軍はサウジアラビアへアラスカから最前線を移すための輸送が軍用機だけではまかなえないことから、民間機で送り込む直前の兵士達の姿をその画面は映し出していた。私が8時間前に遭遇した彼らが今そこにある。
この時、私と世界は常に繋がり連動していることが確信となった。
1991.1 サウジアラビアへ行ってからちょうど1年後、湾岸戦争は日本を巻き込んで勃発した。
1991.8 ファイヤーウォークのセミナーを受講し、火を渡る前に体験したブリージング体験以來、呼吸の面白さに魅了される。その年の12月、夏のファイヤーウォークをリードしたスティーブン・グゼビエ氏による天河ファイヤーウォークのワークショップに同行取材し、ビデオ作品「ファイヤーウォークin天河」の 監督を務める。
この時ビデオに出演していただいた天河神社柿坂宮司とのご縁から龍神系神社との深い関わりがスタートする。宮司からは「太陽も月もない、火も水もない統合された世界がやがて統合の世界が訪れることでしょう」と告げられる。以來、相反するエネルギーを統合する役割を担い、陰陽の世界観を見ていくこととなる。
1992 スティーブグゼビエのレイキワークショップをディグリーIIIまで修得
1994 スティーブンの師匠であるマイケル・スカイに指事し、Circular Breathing Trainingを修得し、ブリージングファシリテーターとなる。この年、娘が水中出産で生まれる。以來、それそれの出生と人生とはどのような必然の糸で結ばれているかを探求し始める。その時点で出産・誕生によるトラウマはないと西洋的な心理学とは一線を画す。その一線を画したことが誕生とは自分時間(リソース)に至るための象徴的なイニシエーションとなっている可能性が見えてきた。
1995 ブリージング各種ワークショップの傍ら、娘が生まれた片桐助産院で妊婦のための教室「呼吸」をスタートさせる。以來、片桐弘子先生のもとで出産・誕生への見識を広げてゆく。
1996 前田美智子によりレイキマスターの資格取得。片桐助産院にて助産師対象のリバーシングワークショップを開催。
以來、セラピスト、トレーナー、リバーサー、ファシリテーターとして個人セッションとグループワークを手がけ今に至る。
1998 天河ブリージングを開催。以來、不定期開催。
2000 横浜バースハーモニーにて現在のマタニティーブリージングの原型をスタート。以來、池川クリニック、福岡市、七尾(石川県)、津久井(相模原市)、日野春(山梨)、沖縄のゆいクリニック、久米島などで不定期開催。
2014 福岡でブリージングプラクティショナー養成講座を開始。
2014 沖縄 久米島にてグループリバーシンク開始、以來、不定期開催。
2015 江ノ島にてブリージングプラクティショナー養成講座を開始。
2016 サイトにて呼吸の学校立ち上げ
2019 東京都日野市程久保(多摩動物公園)に呼吸の学校を設立。